文系的アプローチによる英語観
- sojisakurai
- 2019年11月24日
- 読了時間: 2分
英語は出来なければ出来ないほど、いざ真剣に取り組むと簡単に点数は上がります。最初の、スモールステップをぽんと上がれれば、わりと簡単に上がります。もちろん個人差はありますが、だいたいはぽんっと上がります。しかし不思議なのは、あれほど成績を上げることに執着し、渇望していたのに、いざ上がっても生徒本人はあまり喜ばないのです。英語以外の教科が上がれば、わりと素直に喜ぶように見えるのです。でも英語はだめだ。みな一様にあまり喜ばない。喜びが少ないように見える。ぼくの個人的感想ですが。なぜか?
点数が伸びる、すると英語という教科の意味が分かってくる、すなわち実はさらにその先に途方もない景色が広がっているのが見えてきてしまうからではないかと思うのです。つまり高みに登りたい登りたいと思っていていざ登ってみると、実はその先にはるかに高い山の景色が急角度で広がっており、しかもそれは一本道ではなく、無限に見えるほど広く、大きく広がっていることに気づき、もうため息がでてしまうのです。こんな小さな頂に登ったくらいで喜んでいる場合じゃない、点数がどうこうではないことに、はっきりとではないにせよ、ぼんやり気づき始めてしまうのです。すなわち英語は英語ではなく、実は激しく国語、すなわち日本語の勉強であり、日本語という枠から飛び出すためのただのツールであり、英語を話せるとか、外国人と対話ができるなんていうのはただの副作用であり、本質はもっと別のところにあることに気づいちゃうからではないかと思うのです。
そういうわけで、英語の成績が上がるのは、実はそれほど心躍る出来事ではないかもしれません。でも目が開くことはそれ以上の喜びに違いない。喜びの種類もそんなに単純じゃないんですね。しかしお父さんお母さんは間違いなく素直に喜んでくれるので、やはり良いのではないでしょうか。
ちなみにぼくは、英語に関してはいつもため息ばかりついています。ことばの深淵さに。
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